見て学ぶ、は本当に正しかったのか?

私の子供の頃は、地域の少年少女が大量に居たため、チームが巨大になり、どうしても「見て学ぶ」ことが多くなってしまったのです。(保護者の手がまわりきらなかったのです)

一番多いときには3~40人は居たでしょうか?かなり選手層の厚い(笑)チームです。レギュラーと二番手、その他ちょろちょろ入れても、メインの練習は20人が関の山。その他の子供たち(年少組)は「見て学ぶ」ことが多くなりました。

はじめはポジションの名前から。「あれはショート」「こっちはサード」など、座学に近いような内容でした。今のような冬の時期に、小学校に入ったばっかりの子供たちには、なんと酷なことだと今になると思います。(当時も寒かった記憶しかないですが)




見て学ぶ、結論を言えば、正しくなかったと思う

さて、「見て学ぶ」は正しかったのか?についてですが、結論を言えば「(低学年の子供には)正しくなかった(のかもしれないごにょごにょ)」と思います。ただ、当時の現実問題を考えれば「とても正しかった」のだと思います。(あぁ、わかりにくい文章だ)

「見て学ぶ」ことができるのは、ある程度プレーをしたことがある人、特定のプレーにハテナを抱きつつある人にはとても有効です。ある場面、なぜあの人は、この動きをしたのか?今の私のように、半分引退したような者には、見る全てのプレーに自分を重ね合わせて、イメージトレーニングかつ頭脳のトレーニングになるので、見ているだけでも上手くなった気になります。(笑 )

ただ、プレーもしたことないのに、見たってそれほど得るものもないのです。料理がまったくできない私が料理本を見たときのように「うまそうやなぁ」「ハラへったなぁ」くらいのものしか得られません。これが、ある程度料理できる人なら「ここで醤油!?」とか「あぁ!煮るんや! 」とか「なんで、切り目?」とか発見したり、ツッコんだりしながら、得るものも多いのです。

現実問題、あの当時、指導できる保護者がいなかったのと、子供のいきなりボールを持たせるのは危ないということで、約2年間は座学に近い「見て学ぶ」期間がありました。

今の世なら「うちの子にボールを握らせないとはけしからん!」というワガママな親とか「ボール触れないならや~めた」という賢い子供がいるので、みんな平等にプレーせざるおえないのでしょうが。(というか人数も集まらないのが現実なのでしょうね)

まぁ、のんびりした時代でしたよ。







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